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プライドと偏見

「プライドと偏見」という映画が、もう何年もすきなのだけど、 最後、エリザベスが嫌いな人とお金のために結婚するんじゃないかと心配するパパに、 「プライドと偏見を持っていたのは、ダーシーじゃなく自分だった。」 と告白するシーンがとても好き。 (雨の中の1回目のプロポーズも、2回目のプロポーズもとても好き。) その時の彼女の顔は輝いていて、 ああ人は、間違えていたのは自分だったと心から気がつき、 目の前の人のすばらしさに気がついた時、 こんなに目がひかるんだなぁ、と思う。 キーラナイトレイは、とても素敵な女優さんだなあ と思うのです。 今わたしは、 「高慢なのは自分なんだ。」 と気がついてはいるものの、 それがあの時のエリザベスのように、 「ああ ほんとにわたしが間違っている。間違えているのは、わたしだ。」 という思いが、お腹の底まで落ちていないのです。 わたしは間違えている、 でも、言ってること、考えていることは、間違ってはいないよね? どこでも口にできることじゃないし、 裁いている要素がないとは言えないけど、正論だよね? とのもわもわした思いが、捨てられない。 正論は人を救わない 正しいことより、愛することを わかってる、わかってるものの、 バカにされたり、見下されると、 なぜ自分のたどり着いているところまで来てないやつに見下されにゃならん と心の中で反発しているのです。 いやもうそこは通った、 それは考えた、そのうえでこうした、 そこを汲めないってことは、ここまで来てないんでしょ? そこまで深まってないんでしょ? その位置で わたしにそれを言う? 別にわたしは あなたみたいになりたいとは思ってない と心の中で猛反発している自分。 なーーんでこうなっちゃったかなーー。 わたしここまで嫌な奴だったかなーーー。 こんな自分は自分でも好きではない。 あんな風に「自分は間違っていた」と心の底まで落ちて 心から笑いたい。 あんな風に目をひからせたい。 イエスさま わたしをこの罪から救ってください。 わたしの心の目を開いてください。 自分よりも他の人をすぐれたものとし 正しさよりも愛することを求め 完全ではないものと 完全にはなれない自分を 愛することができますように。

2017 0820

きっとこの夏も、後から振り返った時に、思い出深い夏になるんだろうなぁと そんな風に思っています。 Jちゃんが今日からトルコに出張しています。 10日は短いのか長いのか… このまま海外出張が増えたら?長期になったら?赴任になったら? でもでも…私の仕事も忙しくなったら?子どもが与えられたら? 考え考えて、でもロクな思考にはならなかった。 ドツボにはまり、けんかもし… そして立ち返った原点は、 Jは愛すること。 Kは従うこと。 この原点でした。一生懸命お互いにそれをしよう、と。 その原点に返れたことが、すごくよかったなあ。と心から思いました。 あの2015年の1月1日、 わたしはLAで、こんなにも、ほんとうに自由だ と感じ これからなんでもできるし、どこへでも行けるし、 だいじょうぶだ と思っていました。 結婚のことも、まだなにひとつかたちになっていなかったけど、 そして結構 見当違いのことを考えていたのだけど でも本気で、 イエスさまについていきたい。仕事も、結婚も、神様に従うことの延長線上にしたい そう祈って生きていた時に、 いらないものはなくなって、 置かれるべきところに置かれて、 仕事も最後に管理者として思いきりやりたいようにやったし、 願っていた以上の人と、 この人だ 間違いないといつでも思える人と 最速で結婚した。 だから 今も わたしは、 イエスさまに従いたい と本気で願い、祈って生きていくだけでいいんだ。 と ほんとは分かっている。 特別なことが何もなくても、 神様から与えられた たった一人の伴侶といるだけで、 わたしは自由だし なんでもどこでもだいじょうぶだ と思える今は なんて満たされていて 感謝なんだろうと思う。 ただ黙って祈って待っていてくれた2013とか2014とか2015とか あの頃のJちゃんは ちゃんと今報われているのか たまに不安になる。 Jちゃんが報われてほしいなーというのは 付き合う前からのわたしの願いだったけど 今 それに関われる人になれた時に わたしの存在を通して 報いを受け取れているのかなーと 心配になるのです。 寝れなさ過ぎて頭の中身を移してみる。 Jちゃん以外の人が見ることがないというのは 今のわたしにとって なんという安心だろ