プライドと偏見

「プライドと偏見」という映画が、もう何年もすきなのだけど、
最後、エリザベスが嫌いな人とお金のために結婚するんじゃないかと心配するパパに、
「プライドと偏見を持っていたのは、ダーシーじゃなく自分だった。」
と告白するシーンがとても好き。
(雨の中の1回目のプロポーズも、2回目のプロポーズもとても好き。)

その時の彼女の顔は輝いていて、
ああ人は、間違えていたのは自分だったと心から気がつき、
目の前の人のすばらしさに気がついた時、
こんなに目がひかるんだなぁ、と思う。
キーラナイトレイは、とても素敵な女優さんだなあ と思うのです。

今わたしは、
「高慢なのは自分なんだ。」
と気がついてはいるものの、
それがあの時のエリザベスのように、
「ああ ほんとにわたしが間違っている。間違えているのは、わたしだ。」
という思いが、お腹の底まで落ちていないのです。

わたしは間違えている、
でも、言ってること、考えていることは、間違ってはいないよね?
どこでも口にできることじゃないし、
裁いている要素がないとは言えないけど、正論だよね?
とのもわもわした思いが、捨てられない。

正論は人を救わない
正しいことより、愛することを

わかってる、わかってるものの、
バカにされたり、見下されると、
なぜ自分のたどり着いているところまで来てないやつに見下されにゃならん
と心の中で反発しているのです。

いやもうそこは通った、
それは考えた、そのうえでこうした、
そこを汲めないってことは、ここまで来てないんでしょ?
そこまで深まってないんでしょ?
その位置で わたしにそれを言う?
別にわたしは あなたみたいになりたいとは思ってない

と心の中で猛反発している自分。

なーーんでこうなっちゃったかなーー。
わたしここまで嫌な奴だったかなーーー。

こんな自分は自分でも好きではない。

あんな風に「自分は間違っていた」と心の底まで落ちて
心から笑いたい。
あんな風に目をひからせたい。

イエスさま わたしをこの罪から救ってください。
わたしの心の目を開いてください。
自分よりも他の人をすぐれたものとし
正しさよりも愛することを求め
完全ではないものと 完全にはなれない自分を
愛することができますように。

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