バウンダリーと良心


最近よく、境界線について考えています。
誰かに「してほしい」と願うことを、自分に思いっきりやってあげることにしてから、
境界線にだれかがふれた時に、とても気になるようになった。
前までは、「ま、この不快感が、人間社会で生きていくってことさ」
と思っていたんだけれど。

わたしを今取り巻く人間関係で、わかりやすく私の境界線を侵害する人はほぼいない。
どうしてかというと、肉親など自分の意志で切れない関係でない以上、
わたしが境界線を侵害する人との親しい関係を望まないから。
なので、わたしが「うぇーい」と思うときは、結構もよっとした境界線侵害で、
自分でも判断に困ることが多い。

いちばん多く、そして嫌な気持ちになるのは、
操作系の境界線侵害。(この表現、Jさん好きそうね)
「~~してくれるでしょう?」「あなたは~~すべきでしょう?」
と暗に訴える系のあれである。
最近わたしはこの暗にきたメッセージは受け取らないようにしようと決心してるので
(受け取らない=キャッチはするけど、それを自分の行動の根拠にしない)
結構あっさり「No」を言う。
けど、この操作系の境界線侵害って結構厄介で、
相手の問題でなく、わたしの内部の問題が引き出されて、
出すべき答えを伝えられなかったりする。

たとえば、
「ここでNOって言ったら、みことばに生きてないって思われる…」
という、「そんなクソみたいなプライドは日本海に捨ててこい」(byH paster)
というゆがんだプライドだったり、
「Noって言ったら、この人すねるんだろーな。めんどくせー」
という、相手の反応ありきの面倒くさがりだったり。

なかなか、自分の境界線を守るのって難しいのです。
箴言4:23
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
と聖書に書かれているとおり、力の限りやらないと、
どうやらよくないものはすぐに入り込んでいく。

このことについて考えを巡らせていた時、
やべー自分もやるかもな、と思った境界線侵害が一つあった。
それは、「自分の良心を人に押し付ける系侵害」。

たとえば、
「どんな人が一緒だろうと、奉仕は奉仕。」
とか、
「どんな内容だろうと、奉仕は奉仕。」
という価値観を、自分が持っていたとする。
だから、詳しい内容や、詳しいメンバーを告げることなく、
限定した条件を相手に告げて、相手からほしい答えを引き出す。
(これ、意図して操作するときもあれば、もはや無意識の時もあると思う)。

そうして、答えを引き出した後で、条件を示す。
そして暗に、断るわけがないよね、という態度、空気で相手に接する。
相手は状況がゆるせば「NO」と言いたいのだけれど、
言い出す機会を与えない。
そして、「当然そうすべきだから」と罪悪感を持たない。

でも、わたしにも、相手にも、
未熟さを持つ権利も、みことばに従うか決める必要も、
条件によって自分の答えを変える権利も、ほんとはあるのだ。
その人がどうしても嫌な人と一緒に過ごすことを、「愛」を掲げて暗に強要する権利は、
誰にもないのだ。
自分の良心、価値基準、「こうすべき」は、自分にだけ当てはめるもので、
その基準で相手の境界線を勝手に設定してはいけないのだ、と思う。

悪条件を示したことで、相手にNOを言われるのならば、そのNOは受け入れること。
神ご自身が自由意志を与えたひとりひとりなのだから、
創り主が自由を与えておられるのだから、
相手の自由を奪ってはいけないのだ…

と最近よく考えます。

まー気を抜くと、わたしこそ操作系女子なので、
気をつけねばなんねーなー と自戒。

相手を尊重し、愛し、自由を与えながら、
そして相手にもそのようにされながら生きていくのは、
とても難しいことだ と思いつつ
少しずつ その道を歩んでいきたいと思うのでした。


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